これはあいだ。

すきのはなし。

ブラッドブラザース

2/14に新橋演舞場から始まったブラッドブラザース、3/15の大阪松竹座で大千秋楽を迎えました。全36公演、キャストの方々、本当にお疲れさまでした。

Twitterにも少しだけ書いたけど、ブラッドブラザースを観ての感想を残しておこうかなと思います。あくまでも私なりの解釈だから違う部分もあると思うけど…。
 
 
まずは、7歳のエディがすっっごくかわいかった!初めて見たとき、あまりにも可愛くて、だけどキャーキャー言えないから持ってたハンカチをぎゅっと握りしめて堪えていました。声にならない声が出るってああいうことなんだなって、初めて味わった(笑)だってステージに居るのは7歳のエディなんだもん。21歳の神山くんじゃなくて、7歳のエディ。話し方もどこかたどたどしくて、喜怒哀楽が激しくて、子どもならではのストレートな感情表現がすごく表出していた気がします。
私が新橋の初日に観た時、エディの家に遊びに来たミッキーをエディママが追い返すと、エディはすごく悲しそうにしてた。今にも泣き出しそうにべそかいて、クッションを抱えてソファにうずくまって。でも約3週間空けて見たエディは、怒ってた。足をドスドス鳴らしてクッションでソファをバンバン叩いて、怒りを表現してた。何で遊ばせてくれないの?なんで?どうして??って。エディとミッキーは違うの って言われても、そんなの子どもに伝わるわけないよね。同じ年で同じ誕生日で同じ男の子で親友で兄弟の誓いを立てて。何が違うの?どこが違うの?一緒だよ?って思うだろうなあ。
 
成長してからミッキーに「俺とお前は違うんだ」って言われたときも、エディは「僕と君は全く同い年だよ、ミッキー」って言ってたもんね。
 
7歳の頃のエディの変化を見ていると、大切な友達を無下にされた苛立ちとか、その理由が理解できない歯痒さが、悲しみ よりも 怒り として表現されるようになったのかなぁと感じました。だってエディは、ミッキーのことになるとわりと感情を爆発させていた気がする(それは成長してからもだけど)。怒りながら泣いたり、拗ねたり、小さい子によく見るような光景だったかなぁ。
 
 
あと、すごく気になる部分があって。ミッキーが薬物依存になってリンダがエディと会うシーン。私はなっちゃんリンダを前半にガッと見て、後半はまりゑリンダの公演だったんだけど。なっちゃんリンダの時は、なんだかすごく楽しそうに見えたんです。自分を頼ってきてくれるリンダが愛おしくて、ミッキーの奥さんだと分かっていても、それでも好きな人に必要とされることが嬉しいのかなって。だから、ほっぺにキスするのも、エディなりの愛情表現。ミッキーがいるから、口にはできないから、せめてほっぺに…って。肩をトンってぶつけ合ったり、涙を拭って抱きしめたり、全ての行為にはエディからリンダへの愛が詰まっていたように見えました。
だけどまりゑリンダの時は違って見えたんですよね。嬉しさとかひと時の楽しさがエディの表情から読み取れなかった。なんだかすごく困ったような、戸惑っているような顔をしてた。リンダが手を絡ませてきても、腕にしがみついてきても、肩をトンっとぶつけてきても…終始眉を下げてちょっと困ったような表情で、何ならリンダに付き合ってあげているような、仕方なくしてあげているような、そんな雰囲気さえ出ていた気がする。
 
この違いは何なんだろうって、ずっと考えてて、終わった今でも頭の中をぐるぐるしてます。だって、エディはリンダのことが好きだから頼ってこられて嬉しかったのかな、その時間が一瞬だったとしても幸せだったのかなって思っていたから。でもまりゑリンダとのその時間は、エディから 楽しい とか 嬉しい とかの感情がどうにも読み取れなくて。ただ、その時々のリンダに合わせて演技を変えてきただけなのかもしれないけど…じゃあどういう意図で変えたんだろうって。今でもしっくりくる答えが見つからない。(もしかしたら、なっちゃんリンダの時も、そんな表情を出していたのかもしれないけど。
いくつか考えたんだけど…エディはミッキーへの罪悪感があったのかな、とか。リンダのことが好きだけど、エディはやっぱりリンダよりもミッキーが大切で、後ろめたさがあったのかなぁ、なんて。だからあんなに複雑な表情してたのかなぁ。リンダがエディに電話したとき、リンダは「ええ、覚えているわ」って言ってた。そこで I'm Not Saying a Word が流れるから、きっとエディは あの時言ったこと覚えてる? とか、それっぽい言葉を言ったんじゃないのかなあ。憶測だけど。
もしくは、リンダが自分を頼って必要としてくれたことは嬉しいけど、それはミッキーの為であって、リンダの愛が決して自分に向いている訳ではないことが分かっているから、あんなに苦しそうな表情をしてたのかなぁ、とか。ミッキーがリンダを愛していることも、リンダがミッキーを愛していることも、そばで見てきたエディは痛いくらい感じていたと思う。
千秋楽を前にして変化していることがたくさんあって、すごいなと思う反面、自分の中での解釈がガラッと変わってすごく戸惑う部分もあって…でもきっと、舞台は生モノだから、こういう変化も魅力であって楽しいんですよね。
 
 
ブラッドブラザースに出てくる人たちを見ていると、もっと良い結末はなかったのかなって思って仕方ない。だって、みんな悪くないんだもん。それぞれに大切な人がいて、その人を守りたくて、好きで、愛していて、それが結果としてあんな結末を招いてしまった。もっと、みんなが幸せになれるような終わりはなかったのかな。
 
 
お互い助け合わなきゃいけない
僕はいつも兄弟を守る
そして味方になる
そしてお菓子を分ける
 
 
思えば、7歳の頃に立てた誓いを、エディはずっと守っていた気がする。お金や仕事、住む場所を与えたのも全ては兄弟を守るため、助けるため。小さい頃に分けていたお菓子が大人になるにつれお金や他のモノになっただけ。分けてあげられるモノがあるから、ミッキーを、リンダを助けようと分けてあげた。でもきっとそれはエディにとっては何の変哲もないことで、その行為に対してミッキーが怒るとか、そんなことは考えていなかったんだろうな。エディが置かれている環境はお金や仕事に困ったりすることもないだろうから、エディはミッキーとの格差を気にすることはなかったと思う。もしミッキーが持っていないのであれば、自分が分けてあげる。だってそう兄弟の誓いを立てただろう?って。でもミッキーには、守らなきゃいけない人がいて、愛してる人に新しい服も買ってあげられない、仕事がないあの状況で、きっとエディとの格差に敏感になっただろうし、だからこそ余裕のある生活を送るエディに余計苛立ったりもしたんじゃないかなって。エディの力を借りないと、自分ひとりの力では愛する人ひとりも幸せにしてあげられないのかって。ミッキーはエディが決して自分を馬鹿にしているだなんて思ってない。エディはずっと変わらない、ただ小さい頃の誓いを守っているだけ。困っているなら助けるよ、持っているものだって分けるよって。それを分かってはいても、きっとミッキーは素直に受け入れられなかったのかも。男としてのプライドみたいなものがあったのかもしれないなぁ。
 
 
エディはきっと、ミッキーのことが大好きで大切だったんだと思う。親友になって、兄弟の誓いをたててくれたミッキーのことが大好きでたまらなかったんだと思う。ミッキーはエディが知らないことをたくさん知っていて、教えてくれたから。警察に聞かれたら"92番のバスを待ってるんだよ!"って答えるんだとか。"Fで始まる言葉だよ"とか、普段のエディの生活ではやらないような、触れることもないような言葉や遊びをたくさん教えてくれた。パパやママが教えてくれない、辞書にも載ってないようなことをエディはミッキーからたくさん学んだ。きっとエディの学校の友達は同じような階級の子たちだろうから、エディにとってミッキーはすごく珍しくてワクワクさせてくれるような存在で、そんなミッキーと居るのがエディはすごく楽しかったんだと思う。だって、ミッキーやリンダといるときのエディは好奇心で目がきらきらしているように見えたから。
 
 
ジョンストン夫人がエディとミッキーにふたりが双子であることを告げたとき、エディは顔を歪めたあと泣いていて。もし自分がジョンストン夫人の元で育てられていたら…、リンダの隣にいるのは自分だったかもしれないのに…、そういう意味の涙なのかな。なんだかもっといろんな感情が織り混ざってる気がするけど。
ライオンズ夫人の愛が歪んでいることにエディは気づいていたと思うし、その愛が本当に自分を想ってのものなのか、少なからず疑問を抱いていたと思う。ミッキーやジョンストン夫人に関して過剰に反応するライオンズ夫人を見て、不信感や疑問みたいなものを持っていたかもしれない。だから「ママは秘密ないの?」って、試すような言葉を使ったのかな、とか。
 

そういえば、なんでエディはロケットをライオンズ夫人に渡したのだろう?渡してしまったら中を見られることは容易に想像できたはずなのに。この時点でエディがミッキーと双子だということに気付いていたとはあまり思えないんだよなぁ、わたしは。

 
エディは、ジョンストン夫人から真っ直ぐな愛を受けて、隣にはリンダが居て、自分が欲しいと思っていたものを持っているミッキーが羨ましくて。ミッキーは、地位や名誉、そして家族を養っていけるほどのお金を持っているエディが羨ましくて。ないものねだり なんて言葉で片付くような話ではないけど、お互いがお互いを羨ましがっていた。あいつみたいになれたらいいのに、って。でももし、貰われていったのがミッキーで、残されたのがエディだったとしても、きっと結末は変わらなかったんだろうな。だってもし逆だったとしても"あいつみたいになれたらいいのに"っていう感情は生まれていたと思うから。
 
 ちなみにこれはわたしの解釈だけど、ミッキーはエディを一度は撃とうとしたけど、あれは誤射だったんじゃないかなって思ってる。本当は拳銃を床に置くつもりでいたけど、ジョンストン夫人が出てきてしまって、動揺してしまった。"俺がこいつだったかもしれないのに"って、たまたま銃口を向けてしまったから。撃つタイミングとか、ミッキーの視線や顔の向きを考えると、本当は撃つつもりなかったんじゃないかって。あくまでもわたしの想像だけど。
 
 
神ちゃんの外部の舞台が決まったとき、本当に心から嬉しかったんです。舞台の発表があった頃はちょうど神ちゃんの10000字が発売されてたくらいで、今の神ちゃんの立ち位置とか考えたりしていたから。もっといろんな人に神ちゃんの魅力を知って欲しいと思っていたから。ジャニーズではない役者の方々がいる中で、神ちゃんがどんな演技をするのか、わくわくしてしょうがなかった。期待しすぎて、自分の中でのハードルを上げすぎているかもしれないと気持ちを落ち着かせようともしたけど、それでもわたしはこれまで神ちゃんに裏切られたことはないから、ハードルをどれだけ高くしていても軽々と飛び越えてくることを知っているから、すごく期待に胸を膨らませていました。
わたしの中での神ちゃんのイメージは"謙虚"。負けず嫌いだし、とことん頑張る人だけど、どこか周りに遠慮している部分がある気がしていて。アクロバットも歌もダンスも演技も、神ちゃんは長けていると思ってる(贔屓目)けど、自らそれを表に出すことはあまりしなくって、もっと自信持っていいのにな、自分を売り出してもいいのになってずっと思ってた。だから外部のお仕事で、誰に遠慮するでもなく神ちゃんの最大限を出してくれることを期待していたし、きっと全力でくるんだろうな~って想像していました。
新橋演舞場の初日、ステージに立つ神ちゃんは、わたしの想像をはるかに越えていて、今まで見たことない姿がたくさんありました。神ちゃんだけど神ちゃんじゃない、ステージに存在しているのは紛れもなくエディだった。いつもは 神ちゃんを見にいくんだ っていう意識があったけど、ブラッドブラザースの時は神ちゃんではなくエディに会いに行ってるような感覚でした。だからこの舞台の期間中は、アイドルである神ちゃんを見ることも、ジャニーズWESTの曲を聴くこともなるべく控えて、エディにだけ、ブラッドブラザースにだけ集中してた。ブラッドブラザースは、内容を知れば知るほど切なくて胸がぎゅっと掴まれるようなお話だった。エディ、ミッキー、リンダが楽しくしていればしているほど、結末を思って泣きたくなった。登場人物それぞれに感情移入していたから、泣いてしまう部分も毎回違ったりして。だけどそれがすごく楽しかった。ひとつの話にこんなに夢中になったのも、こんなに足を運んだもの初めてでした。時間もお金も少し無理をしたけど、無理をしてでも観に行ってよかった。
 
 カーテンコールに出てくる神ちゃんはとても凛としていて、エディではなく神ちゃんに戻る部分も垣間見えるんだけど、お辞儀をするときはエディで、最後までエディとしてステージに立っていて、大好きでした。大千秋楽のあいさつで「毎日が楽しくて、輝いてて」って言ってた神ちゃん。わたしはその言葉がすごく嬉しかったよ。わたしの目に映る神ちゃんもキラキラ輝いていたから。あまり弱音を吐かない神ちゃんが、逃げ出したくなることもあったと言ってたのも、すごく印象的で、言葉に出してしまうくらいプレッシャーがあったんだろうなって、神ちゃんの挨拶を聞きながらいろんなことが頭の中を巡っていました。本編でたくさん泣いたからと、それからは泣かずに挨拶をしていた神ちゃんはすごく頼もしく見えたしかっこよかった。この人を好きになれて本当によかったなって思うのと同時に、なんだかすごい人を好きになってしまったんだな、とも思ったり。ジョンストン夫人の「本当はエディも自分の手で育てたかった」という言葉と、ライオンズ夫人の「神ちゃんにたくさん助けられました。優しくしてくれてありがとう」という言葉も本当のお母さんみたいに思えて、エディもミッキーも同じように大切にされていたんだって、たくさんの愛を感じました。
こんな温かいカンパニーの中に神ちゃんがいて、素敵な舞台に照史とW主演として出演することができて、ファンであるわたしにとってもすごく大切な作品となりました。初めての外部舞台がブラッドブラザースで本当によかった。
 

 
忘れない。忘れないよ、絶対忘れない。
 
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